湯水のごとく出るわ出るわ

先日はただの鬱憤晴らしで申し訳ない。
そして今日もただの鬱憤晴らし。
はい!反省してないね!今回湯水のように出るのはまた愚痴だよ!
楽しい楽しいブログだと思った?残念!俺の毒吐きでした!

前回抽象的に色々不満を言ったけれど、今回はもう面倒なんで具体的にいっていきたいと思います。
以下、あくまで俺個人の意見ですので間違っても参考にしちゃいけません。

とりあえずツイッターよ、ツイッター
俺は始めて割と間もない頃から「ツイッターはコミュニケーションツールとして欠陥品」と高校で吼えていたわけですが、今もそう思います。
正確に言うと、ツールとしては非常に便利ですよね。気軽に色々つぶやけて、その軽いのりのまま色々な人とコミュニケーションがとれる。うん。便利。

がしかし。ネットってのは「感情的になりやすい」という側面を持ちます。
ツイッターという「自分の場所」だとしたら尚更。
たとえば、ブログの場合はある程度の長さを持って書く人が多いので、どういうことを書こうかと、頭の中で文章や構成を構築してから筆をとる人が多いと思います。(前回の俺はどう考えてもそうではありませんがね。)

しかし、ツイッターとは先ほど言ったように気軽に色々つぶやけてしまうツール。
頭の中で構成などを練らないため、その分、自身の中で発言を客観視する機会を失ってしまいます。
というわけで、不適切な発言をしてしまいやすいということが指摘できると思います。
それが本人にとって不適切でなくても、その発言を見る周囲の人間にどう写るかということもあります。
つまり、それだけ不快な思いをする、させる機会が増えてしまうんですよね。

そしてまだ不適切だとはっきりして記できるケースならまだ良い。
ツイッターの真の恐ろしさは、前回書いた「価値観の違う人間同士でいざこざを起こす」ということです。
Aという人間がつぶやいた内容でBという人間が不快になり、何かしらの形で返信をつぶやいたとします。
しかし、Aはつぶやいた内容が不適切だとは思っていなかったし、悪いことをしたと思っていない。BはBで、自分の意見を言っただけ、ということはAと条件は変わらない。
書いていて思ったのですが、具体性がないと分かりにくいですね。

Aが「ホラー映画のグロい演出っていいよね、この前のうわさのやつ、首の血管までCGで作ってて、血のねっとり具合がえぐかった!」とつぶやいたとします。
それを見たBが「うーん、僕はホラー映画って、グロとか血とかの演出に頼りすぎず、人間が怖がるものをもっと根本的に追い詰めて欲しいので、あんまり好きじゃないんですよね」
とつぶやく。

俺の性格上こんなやんわりしかかけませんが、お互いもうちょっと過激に言っていると脳内補完してください。
さて、これを見ていえることは、どっちが悪いも何も無いということです。そしてお互い不快になったり困惑したりと、ものすごく非生産的な状況が発生します。

もちろん、不快な発言や価値観がそぐわない発言を見ても、特に何もせず、無視するというのもありといえばありなのですが、逆に言うと、価値観の違う人が自身の発言を見る可能性が高いため、不用意に発言できなくなってしまいます。
トラブルはそれによって避けられるのも確かですが、それは果たしてコミュニケーションツールとして良い姿なのか、否か。

事なかれ主義をツイッターで突き詰めると、まさに言いたいことも言えない世の中の完成です。
面倒なものですね。
もっとも、こういうこと考えながらツイッターをやること自体もあまりよくないのかもしれませんね。
それに、ツイッターはフォロー(他人の発言をウォッチングできるようにすること)した相手をフォローし続けなければならない、という道理は無いので、こいつとは仲良くなれないと思ったら、フォローを外せばいいし、フォローしてくる人間をブロック(自分がフォローされたのをキャンセルすること)すればいい、という指摘もあると思いますが、世にはそれを「ブロックされた……」「リムられた……」と嘆く人もいるわけで、面倒ですね。

そもそも、一部の価値観の違いだけで関係を途絶えさせること自体「どうなんだろう?」と思いますしね。
部分否定から全体否定に入るのは、言ってはなんですが、馬鹿らしい考えだと思います。
「お前付き合いある人間すべて目に余るところ無いっていえるの?」ってことですよね。
アイドル好きのやつの前でアイドルを貶さないのはある程度のマナーですし、それをツイッターに持ってくる、ってことはそこまで場違いな話じゃないと思うのです。
ただ、現実と違い、ツイッターは如何せん人数が多いので、それと同じ敷居を全てに持ってくれば、当たり障り無いことしかいえないわけですね、俺みたいに。

ちょっと話題ずれたので修正。部分否定と全体否定の話に戻ると、つまり、「ちょっと持て余す所あるけれど人間として全体的に嫌いなわけじゃない」っていう人を冷酷に切り捨てるのって、少々割り切りが過ぎるのでは、と思います。
それに、現実の知人と相互フォローしていたり、ネットで知り合ったけどすごく仲のいい人がいたとしたら、それはネットという社会的立場を忘れた空間ではなく、現実の要素が確かに絡んでくるわけで、「ネットだから気楽にすればいいじゃん」という理屈も罷り通らなくなってしまう訳です。

そんな感じで、俺は改めて「ツイッターはコミュニケーションツールとして欠陥品だ」と唱えます。もしこれに訂正するとしたら、「俺にとって」を文末に着けるでしょう、倒置法を使って。
後、割と「個人の意見は個人の意見」みたいに割り切りすぎる考えも最近余り好きじゃない節が自分にあります。そんなんじゃ価値観の成長も見込めないし、見識狭くなるし、つまらない人間になるし、討論に華も咲かない。
意見のある人はびしばし言ってください。俺の心に響いている限りはそれなりに対応はすると思います。
いやまー来ないで俺が気をもむ必要が無いに越したことは無いですけれどね。