この欲望開放する

先日スカイプで自称礼儀正しい人にいきなり通話をぶっちされたでござる。
それはおいといて。
ぶっちされるまで、結構インターネットの使い方、ありかたとか真剣に議論していたのですが、自分でもびっくりするぐらい俺がよくしゃべるしゃべる。
通話相手にも指摘されたことですが、それだけ普段から考えているんなら、いっそ文章にしてまとめたほうがいいのでは、と思いまして。文章にすることで改めて客観的に見れることも多いですしね。

というわけで、以下ない頭で考えた面倒なことが羅列されます。

インターネットは、あるときは人と人を出会うツールに、あるときは人の築き上げた知識を共有するツール、あるときは人に人が意見を発信するツール。
そう、インターネットは「そこにある」じゃなくて、「そこに人がいる」というのを、利便に、かつ低コストで実現できるツールなんですよね。
人と人をつなぐのは、メールと違ってリアルタイムな会話により向いていますし、知識共有も、アクセスすれば何でも知っている人がいるのと同義です。Google先生、とはよくいったもので、そういった側面がスラングにも顕れていると感じます。意見発信においても、自分の意見を他の人に、いつでも、しかも任意で見せることが出来、非常に便利なものです。
それゆえ、インターネットは、人間同士が交流するのに優れたツールといえます。
昔は雑誌や新聞等に、「~~が好きです、~~が好きな人、文通しましょう!」と投書して掲載してもらって、という時代が多かったと聞きますが、今は簡易になり、自分の好きなコンテンツをの愛好者が募る掲示板、チャット等に「始めまして」と挨拶をすれば、それだけで趣味のお仲間が出来ます。
このように、自身に波長の近い人間を楽に探せるようになりました。少し前まで、そういった少数派の趣味というのは大きな流れに沿ったほうが生き易いこの現代社会において、ディスリスペクトされる傾向があったと感じていますが、マイナーな趣味でも以前よりは胸を張れる人が多くなったのではないか、と感じます。
しかし、それは時にいいことばかりではなく、人間誰しも分かり合えるわけではありません。
世の中は広いと、人間は新しい環境に投げ出されたり、友達の友達の話を聞いたり実際に合ったりすると感じることはないでしょうか。そこまで環境が違わない人間に対してカルチャーギャップを覚える、現実でもよくあることです。
現実でもそんなことがあるというのに、インターネットではどうでしょうか。友達の友達なら、まだ友達を介しているので、人間性がそこまでずれている、ということもないかもしれませんが、ところがどっこい、インターネットはどこの誰だか分からない人がうじゃうじゃいる場所。理解できない感性を持つ人にあふれています。
そんな面倒なツールということを理解して使っている人は如何程いるのでしょうか。
メリットもあればデメリットもある、それが所詮ツールとしてのインターネットの両側面なんです。
だからこそ、ツールの使い方をしっかりわきまえなきゃいけないし、それに関する教育が必要。
以上が交流に関するツールとしてのインターネットに思ったこと。

本当はメディアとしてのインターネット、インターネットでのナショナリズム、SNSとインターネット、インターネットと著作権とか色々書きたいことがあったんですけど、自分でもびっくりするぐらい量が多くなった。次回はもうちょっとテーマ絞って具体的に構想起こしてから書こうと思います。
改めて文章にして冷静になってみると、俺インターネット好きだけど大嫌いだわ!
そんな感じ。以上見てもらう気0な文章。


追記:
大体最近の俺が思っていることはドラマ版GTOの主題歌で説明がつきます。