青い文学シリーズを考える こころ

青い文学シリーズとは、太宰治芥川龍之介夏目漱石といった文豪たちの作品を、この平成の時代にアニメーション化した作品群です。
幸運なことに、近所の図書館にはこのシリーズのDVDがあり、本を借りるついでにしばしば借りてみています。DVD一巻当たり二話収録で一時間ほどあれば見れるので、映画のように週末に一気に、と気構える必要がなく、空いた時間にちょこっと見れるのも魅力です。

さて、今回筆を執った理由としましては、先日視聴した青い文学シリーズ第三弾『こころ』が、ネット上で予想以上に受けが悪いからです。俺はこの作品を大絶賛とまではいかないけれどなかなかに楽しめたのに、どうにも見た人々皆がそうではなかったようで。当然のことですけどね。俺の悪い癖なのですが、自分の意見と同調するレビューを見つけるまで、ついつい感想漁りに没頭してしまう事があります。で、今回はそれがあまりにも長時間続いたため、これならいっそ自分で文章にまとめて、それを見返せば少しはこの何とも言えない感情が落ち着くのではないか。
そう思い、筆を執ってる次第です。

では、『こころ』とはどんな内容だったのか。アニメの感想を書く前におさらいしてみましょう。
こころは、主人公が鎌倉に遊びに行った際に“先生”と出会い、交流して行き、後に先生の逝去の際、主人公に宛てられた遺書を読み、先生の過去を知る、そういったお話です。
国語の教科書でお馴染みの『こころ』は、この先生の手記の部分に当たるわけですね。先生、同じ下宿先にいる先生の友人のK、そして下宿先の奥さんとその娘であるお嬢さん。主要な登場人物はこの四人、そして先生はお嬢さんに恋心を抱いていましたが、Kもまた、お嬢さんに心奪われていたと。先生はKを恋敵と認識し、気難しい堅物なKに対し、恋を諦めさせようと色々言葉をかけ、果ては奥さんに結婚の了承を先に得ると言う抜け駆けを行います。そうして先生はお嬢さんを手に入れたわけです。しかし一方で、Kは恋の悩みだけではなく、自身の道や自律を重んじる堅物故、恋に現を抜かしていた身を恥じ、自分の心の中で板挟みになっていました。先生が思っている以上に、Kは追い込まれていました。
「精神的に向上心の無いやつは馬鹿だ」
この言葉は、先生は「そうは言っても、君は恋に現抜かすやつは馬鹿だと思っていたんじゃないのか?」という、ちょっとばかしKの自己矛盾をつつく感じで言ったわけで、ついでに言えば、あわよくばその自己矛盾に気づいてお嬢さんを諦めてもらえれば、と思ってこの言葉を発したと思われます。
しかし、Kにはこの言葉は、そんな自己矛盾にずっと悩み、その苦しさをどうすればいいか分からない、そんな中で先生に相談した中でかけられた訳ですから、先生からすれば“ちょっとド突いたろ”くらいだったのでしょうが、Kにとっては、“ろっ骨が折れて重症の中ド突かれた”ことになった訳ですね。自分の中で悩んでいることを他人に指摘されるって、予想以上にきつかったりするものなんですよね。
このお互いのすれ違いの結果、Kは“自殺”してしまいます。お嬢さんへ恋心を抱くことで、Kを恋敵としてしか考えずに目を曇らせたことは、攻められるべきではないと思います。しかし、こうして先生は、“親友の『こころ』を踏みにじり、好きな女を手に入れた”ということになります。しかも結果はKの自殺。これは先生が生涯ずっとこころに秘めてきた、悩みともトラウマとも言えない、一つのしこりとなりました。主人公はもちろん奥さんを知っていますし、手記には、書いてある内容を妻は知らないと言っていることで、今まで主人公が接してきた先生夫婦への思いがまた、変わったものに見えてきそうです。

さて、以上が国語の教科書に書かれていた『こころ』から読み取れる内容かと思います。ちなみに、長々と書きましたが、俺は国語の教科書の内容しか把握していません。一応原作は俺のスマートフォンキンドルに突っ込んでありますが、現在絶賛パンドラの匣を読んでいる所でありますので、手を着けるのはまだまだ先になりそうです。
そんななので、原作をこころから愛し、尊敬している人間からは、そうじゃない、そんな解釈じゃないとお叱りを受けるかもしれませんし、これから書くアニメーション版への感想も、そう言った方からは的外れに思われるかもしれません。ご了承ください。

アニメーション版は、ほぼ先述の教科書の部分を映像化しています。
実家からは養子に出され、その養父母にも逆らってしまい、生活に困っているKに対し、先生は自分のいる下宿先に来ないかと誘い、その後は上記の通り。
三十分で上記の内容に収めた訳ですから、展開のテンポは速めで、前知識がないと少し内容の把握が追い付かないかもしれません。しかし、大事な部分をしっかり踏襲し、時にその要点の補佐としてアレンジが加えられている、という印象です。
特に、二話目にあたる『Kの視点』での三十分は、一話と通して見ることで、お互いの気持ちのすれ違い、Kの悩みの大きさと先生の理解度を、如実にしてくれます。

そしてこの“K視点”という言葉からわかるように、物語は第一話、第二話共に徹底して“主観”で語られていきます。小説だと、例えば「Aが立ち上がって叫び、私は驚いた」という感じで主観的な話し方、つまり一人称視点で物語が進むのはよくありますよね。ありふれた手法であり、当時としても、先述の太宰治の『パンドラの匣』や『人間失格』、そしてこの『こころ』も“手記”と言う形をとり、一人称視点で進む物語と言えるでしょう。そういう意味で、一人称視点と言うのは変わり者ではありません。
しかし、この作品は、再度申し上げる通り主観が徹底されています。
先の例えの「Aが立ち上がって叫び、私は驚いた」は、「Aが立ち上がって叫び」までは客観的に見ても事実であり、「驚いた」が主観的な感想と言う事が出来ますよね。読者は常に、この主観的な一人称視点の中からの客観的事実を拾い上げ、物語を把握していくわけです。ただ、一人称視点は、時にそれがひっくり返る事があります。それは、そもそも物語の語り部が誤解をしていたり、時には独白の中に虚偽を交えることで、文中に書かれた“客観的事実”がそうではなくなる場合です。
実はAが立ち上がって叫んだように見えたが、実は叫んでから立ち上がったかもしれない、果てはそもそも座ったまま静かに言葉を発したのを、誇張して言ったかもしれない。人の発する言葉というのは、常にその“客観的事実の不安定さ”を秘めています。もちろん、こうして文章を書く俺の言葉も。

話をアニメの方に戻しましょう。つまり、主観が徹底されていると言うのは、“どこまで彼らが本当のことを言っているのか分からない”という前提が存在し、客観的な事実と百パーセント信頼できることがどこまであるのか、と常に疑問を持ちながら見る事が出来る、そう言うことです。
第一話の先生の視点と第二話のKの視点では、しばしば二人の発する言葉やその言葉の発し方(=言葉の重みやニュアンス)、そして事実の前後が違う事から、やはり徹底して主観的に進められることが伺えます。
故に、第二話のKの視点では、Kが如何に追い詰められたのか、何故自殺という道を選んだのかが分かり、そしてそれを察する事が出来なかった先生の気持ちにシンクロすることが出来ると思います。K視点は原作に存在しないため、そういった視点から映像作品を作ること自体、かなり挑戦的だと思いますが、うまいこと味が出てるなと感じさせられました。

また、第一話と第二話では、同じエピソードを視点を変えてやっているだけでありながら、季節が前者は夏、後者は冬となっており、それがお互いの心境の余裕を表すと同時に、その印象を強める演出のように感じました。事実、先生はお嬢さんと楽しげに会話している様子が見られますが、K視点では、お嬢さんと接するたびに自問、そして距離を詰めてくるお嬢さんに困惑し、しかしそこから離れられないことへの自責と、追い詰められる様子が見られます。
そして、冬の季節故に駅でKが一人お嬢さんを待つシーンではKの悲哀が強調され、お嬢さんが入れてくれるゆたんぽの優しさ、ありがたさが強調されています。

そしてこういった演出と、主観の徹底のされっぷりが合わさることで、どこまでが彼らの本当の気持ちなのか、どこまでが演出なのか、どこまでがお互いのエゴイズムなのか、これの区別が難しくなってくる。これこそがこの作品の魅力であり、そしてある種の難解さや壁であるようにも思えます。こころは人間の疑心暗鬼の様子を描く小説ではありましたが、まさかそれをこんな形で表現するとは、と感嘆した次第です。

この語り口からわかるように、俺はこの映像化は、原作再現という意味では親切ではないものの、『こころ』という作品が持つテイストは十二分に発揮していると考えています。

ただ、気になる点があります。それはお嬢さんの気持ちです。
俺が国語の教科書で読んだ限り、お嬢さんはとても無垢と言うか、世間知らずと言うか、男と同じ屋根の下で暮らしている意識がないような印象でした。
しかしこのアニメ版は、先生と会話する際は上記の印象で間違いないのですが、Kにはかなり積極的で、しかも優しさを振りまいています。
俺は何も原作再現していないから違和感があると言いたいのではなく、むしろこれはKの視点で描かれている事なので、納得がいっています。
しかし、駅で待ち合わせて駆け落ちしようとまで言ったのに、結局お嬢さんが来る事はありませんでした。お嬢さんは一体その時何を思っていたのか、どうして駅に来なかったのか、もちろん空想を膨らませる事は幾らでもできますが、何だか今いち、すっきりしないのです。
そしてこれは表面だけ見れば二股をかけている悪女のようにも見えるわけですね。お嬢さんは頭にリボンをしていてかわいらしく、そして髪をほどいた姿が美しい女性なので、あんな悪女になら騙されていい気がしますが、本題はそこじゃありません。
これが中島みゆき的悪女を装う彼氏と別れられない女ではない事は確かだと思うのですが、ならば何でそういった悪女に見えてしまうのか、理由が知りたい、それだけなんです。

ちなみに、俺として考えられたのは、

一、奥さんに先生との結婚を決められ、お手上げに(大きな力に逆らえない説)
二、そもそも本命は先生だったから、先生をその気にさせる為の発破がけでKに手を出した(マジで悪女説)
三、感傷に浸って駆け落ちを提案したものの、現実性の無さを冷静になってから自覚した(酔った勢いで言った事を後悔する飲み会翌日の俺説)

といった感じでしょうか。
しかし、どんな悪女であろうと、身勝手な女であろうと、Kにとってお嬢さんはひまわり、もっと言えば太陽のような暖かい存在でした。彼が追い詰められて人の道を外れようとしたその刹那、彼を人の道に戻したのは、先生の布団の中に入れられた湯たんぽでした。それは、お嬢さんの優しさそのものでした。例え対象が自分でなくとも。
その優しさが、彼をすんでの所で止め、そして同時に、救済するには至らなかった。何とも、何とも言えないもどかしい話です。

以上が青い文学シリーズ第三弾『こころ』の感想です。
柄になく文学や演出についてかなり書き綴りましたが、俺のように「作品面白かったけどみんなの感想どうだろ?」と思って調べた結果、いまいち消化不良になった方が、一人でもそのもやもやをすっきりさせられたのなら幸いです。