デジモンとの付き合い方についての覚書

デジモンヘッドラインが更新停止されました。
先に投降した、クロンデジゾイドについての検証記事も、デジウェブに追加されたデジモンの把握に重宝しており、好きな言葉はアーカイブ、嫌いな言葉は404notfoundの俺としては、デジウェブの図鑑更新情報がアーカイブされていたことにありがたみを感じずにはいられません。
その意味で、更新が止まることは残念ではあるのですが、ツイッターの雰囲気やデジモンヘッドラインのコメント欄と、自分のテンションのあまりの乖離っぷりに面を食らったことの方が印象的でした。

乖離の理由を考えると、客観的に見るに、まず俺は、現行のものを追っているファンの方々からすれば、熱心なファンではないからでしょう。
tri.の劇場版は劇場に足を運んでみてはいますし、情報そのものは追っていますが、普段は言及も、感想もつぶやくこともありません。
事実、熱気を持って盛り上げていこう、みたいな気概はないので、熱意って意味ではないように思われると思います。
とは言うものの、別に熱が冷めて離れたとかそういうわけでもないんですよ、言い訳がましいですけど。
趣味の幅が近年(特に大学以降、読書やドキュメンタリー鑑賞や博物館めぐりとかを中心に)広がったため、コンテンツに注ぎ込むリソース、具体的にはお金と時間は明らかに減少しています。それは間違いない。
また、曲がりなりにも社会に出てしまっているので、学生の頃のような時間の使い方もできません。
月並みでつまらない言い方をすれば、まさにつまらない大人街道まっしぐらなわけですが、俺は俺で、無理ない範囲で好きなものを続けるってことで、ずっと自分にとって適切な距離を取っていると思えています。

デジモンに限らずのことですが、ゲームは強いストレスを感じたり虚無感を感じたらシャットアウトしますし、アニメや映画といった映像作品も、早く追わなきゃって意識よりも、後から気が向いた時に見ればいいって姿勢でいることが多いため、のんびりとマイペースに楽しませてもらっています。
元来からアンチミーハーみたいな根性をしている俺にとって、そもそも現行のものを追っかけることが美点には感じません。盛り上がっている様を見ると楽しそうですし、進められて面白そうだったらそれを契機に始めたりしてみますが、ファンだったらこうしなきゃ、みたいな義務感を背負うほど意識は張り詰めていません。

それに、クロスウォーズ終盤あたりから強烈に思うことが多くなっていったんですが、ファンの言動の数々は、あまりにも製作陣に期待を寄せすぎていたり、先行きを憂いていたりして、どうにもその空気がしっくりこないとは思っていたのです。一時期俺自身もそういうところあったと思いますが、疲れるわ。
俺がインターネットの世界に飛び込んだのは、そもそも論として、フロンティア終了後所謂「オワコン」扱いされていたデジモンというコンテンツを、終わったとか今やってるとか関係なく、面白いものは面白い、好きなものは好き、でいいじゃん、という、極めて時代の波から取り残される思考故、周りに語れる人間がいないことからネットの門戸をたたいた、そういう経緯だったんですよ。
だから、別にデジモンというコンテンツがまた活動を停止しようと、実際のところそれが大問題とも思わないんですよ。それでも好きな人は好きだろうし、懐古話になりがちだろうと話はできる。

趣味の幅が広がって初めて自信を持って言えるんですけど、別にコンテンツそのものの死って、デジモン位の知名度があればそんなこないと思うんですよ。というのも、俺にとってコンテンツ、いやこの場合は作品といった方がいいか、作品の死っていうのは、作品に言及する人間がただの一人もいなくなった世界のことを言うと思うんです。
俺はインターネットユーザーとして、インターネットにまつわる法律なんかを掘っている内に、いつの間にか著作権法の沼に足を踏み入れてしまっているんですが、その一環で青空文庫の存在を知りました。
ご存知の方には何をいまさらって感じでしょうが、青空文庫著作権が切れた作品を公開している電子図書館です。作品どころか作品を書いた著者が死んでいるわけですから、相当昔の作品が並ぶわけですよ。
ですが、文豪と呼ばれた作家陣の作品をはじめとし、青空文庫では誰でもアクセスできる状況が続きます。
そんな青空文庫ですが、随分昔、公開作品の二次使用に使用料を発生させるか否かといった議論がなされまして、すったもんだあったのですが、その際に、法政大の白田先生が天に積む宝というコラムを書かれました。
このコラムを読んでから、作品が残るって何だろうってことを強く意識しました。
商業的作品としてのデジモンの死は、間違いなく公式がその活動を停止することでしょう。しかし、文化的な作品の死とは、その作品に触れる人間がいなくなること、語る人間がいなくなることだと思えるんです。

細田守監督は、今やジブリの時代の次を担う監督して認知されています。後世になっても、きっとアニメーション映画を語る際、細田監督は言及され続け、無印の劇場版二作は語られ続けることでしょう。
そして、それを契機に、デジモンというコンテンツの世界観の広さ、アニメやゲームや漫画といった作品のバリエーションの多さに興味を持つ人も出続けるでしょう。
その時、サブスクリプションサービスによって映像作品を追えたり、過去のゲームがバーチャルコンソールでプレイ可能だったり、マンガは電子書籍サイトやマンガ図書館Zで読むことが可能だったら、どんなに素敵なことでしょうか。
それらに触れた人の中で、新しい論考や時代背景や表現方法の研究を始めてくれたらまた面白い。
そういう楽しみ方だってあるんですよ。先週友達と飲んだ時も、太宰治の小説について偉く盛り上がったものですよ。

で、そういう考え方であるため、デジモンの商業的生命線、と言うものに俺はファンとして関心が薄いのです。
故に、現行のものを全部網羅しなきゃ、盛り上げなきゃ、みたいな話にそこまでピンとこず、自分が楽しく付き合っていき、先々まで語られるようなコンテンツであって欲しい、という風に考えているんですよ。

昔はデジモン広報委員会って活動していた俺がこういうのもなんですけれど、少なくとも、あまりにも辛いとか苦しいとか思いながら、熱心なファンををやるのを是とは今は思えません。無理ない範囲で楽しく付き合うのが、少なくとも自分の性にはあっている。切にそう思います。

もし、愛情や熱を注ぐことに疲れた方は、自分が楽しめる範囲ってどこまでか、ちょっと距離を置いて考えてみてもいいと思います。かえってその方が、俺がそうやってデジモンに限らずジョジョキン肉マンあしたのジョーも未だ好きなように、長続きするんじゃないかなと思います。